365日瞑想会に参加している。
365日続くかは分からないけど、
ひとまず参加。毎日瞑想をしている。
参加している人とのシェアタイムがあり、
それもいい氣づきや他人との繋がりを感じられる時間。
1週間が経った。
過去の自分のことに思いを馳せているときに
ふと「孤独」というワードがきた。
「あ~、私は孤独だったな」と。
友だちが居ないとか引きこもっているとかいじめられたとかそういうことではないが、
私は「孤独」を感じていた。
友だちはいるが薄い膜が1枚ある感じ。
そして、それを感じるのと同時に今の
「無条件の愛」にも氣づいた。
子どもたちから無条件の愛をもらっていて、
今の私は孤独ではないな。と。
そうすると不思議なもので、
「あ~、両親からも無条件の愛をもらっていたな」と。
それを自分が認識していなかっただけで、本当は昔からあった。それを時間差で受け取った感じである。
不思議なものだ。
やはり現実は自分が作っているのだ。
また違う時、
瞑想すると「大好き」だな~と伝えたくなる。
みたいな話から、私は「大好き」というのに抵抗があるから、
夫にも数えられるくらいしか言ったことないし
子どもたちに言うことで練習している、という話をした。
その後、友だちと話していて
私は「好き・嫌い・死ぬ・愛してる。。。」このあたりの言葉が
感情が重すぎて、言うのも書くのも憚られるんだな~と。
自分の中で思考に浮かんでくることを
同じような深さで話せる相手が今まで居なかったからかも、と。
(自分の中で話せないと思っていたから相手が居なかっただけかも)
だから、この2年くらいで出会った友だちで
同じ深度で話せると感じる人とは
話すのがめちゃくちゃ楽しい☆
あ~、これからはもっと軽い言葉のやり取りでもいいんだな。
重いやり取りをしたければすればいいし、
もういいや、と思ったら、軽いやり取りでもいいんだ。
自分の中身を話すということがもっと軽いことでいいんだ。
自分がそうしたければ、すればいいので。
お空の援軍(見えない存在とか?)に、気軽にお願いをする、というのも
私にとってはびっくりした出来事。
「買い物いくから駐車場空けといて」
そんなお願いをする人もいるとのことw
私のなかでは、ここぞという時・これだけは叶えて欲しいこと
とかをお願いすると思っていて、そこにもギャップを感じた。
もっとライトにやってみたらいいのだ。
その当日、次女は日に何回も「大好き」と言ってくれるし、
夜、家族で布団に居る時に「パパ~⤴大好き~⤴」と言ってるから
私も便乗して言ってみたw


